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『街道をゆく』は司馬遼太郎氏が内外の「道」に沿って綴った全47巻の紀行文です。(有名なので紹介の必要もありませんね。)本書はその中の愛媛を取り上げた1冊で、1981年に発行されたものを大きな活字で読みやすくしたワイド版です。
松山から出発して砥部、内子、大洲、宇和、宇和島、吉田、松野から西土佐へ。司馬さんがこの随筆のために愛媛を訪れた昭和50年代初めは、まだ古きよき日本の面影が至るところに残っていたことだと思います。今も変わらず馴染み深い名所旧跡がたくさん出てきますが、本の中に描かれた風景からは、今ではもう失われてしまった物や色、においまでが感じられる名文です。この1冊を持って、司馬さんと同じ道をたどってみるのもおもしろいかもしれません。
本の中に登場するエピソードについて、少し関連のある話をしましょう。
「敬作の路地」という宇和町の章に、鳥居半兵衛という卯之町の庄屋さんの話が出てきます。このお屋敷には隠し部屋があり、高野長英らが匿われたこともあるそうです。ここの門は庄屋にしては立派過ぎるとして、のちに半兵衛は左遷され、代わりに清水家が庄屋になりました。この清水家の第3代当主に清水伴三郎という人がいて、地元に教会や学校を建て、養蚕を奨励した名士として今も宇和町の著名人のひとりに数えられています。ブラジル渡航を機に波乱の多い晩年を過ごしました。
「吉田でのこと」では、吉田藩で起こった農民一揆の話が出てきます。紙専売に絡み利益を上げようとする吉田藩と商家、それに対し搾取される山奥の貧農との間に勃発したもので、農民側の要求が通った珍しい例だといわれています。一揆の頭領である大野村(現鬼北町日吉地区)の武左衛門はただ一人打ち首となりましたが、当地区の人々は昔からこの人の遺徳を称え、誇りを持って後世に語り継いでいます。平成7年には、当時の日吉公民館長・上田吉春氏と小学校教員の松浦洋一氏の編集で、吉田藩中見役・鈴木作之進が一揆の成り行きを秘録として遺した『庫外禁止録』の井谷正命氏写本(井谷本)の翻刻が発行されました。
以下に関連書をご紹介しておきます。
『清水伴三郎』平木国夫著 三月書房 1989年発行(K289-S31)
『庫外禁止録(井谷本)』上田吉春・松浦洋一編 日吉村教育委員会 1995年発行(K251-22)
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ターナー島は松山市高浜港の南西500m黒岩海岸の西約200mの沖合にある島で、正式には四十島といいます。なぜターナー島かというと、夏目漱石の小説『坊っちゃん』で「四十島の松はターナー(英国の有名な画家)の絵にありそうだ」とほめたことから、いつしか、ターナー島の愛称で呼ばれるようになったと言われています。
ターナー島は、花崗閃緑岩でできており、わずかな火山灰があるだけの島ですが、俳人、正岡子規が、「初汐や松に浪こす四十島」と詠んだように、昔は松の緑の美しい島でありました。ところが、昭和45年ごろから西日本に広がりはじめた松食い虫の被害がターナー島にも及び、昭和52年にはとうとう最後の一本も枯れてしまいました。
この物語には、当時松山市立高浜小学校に勤務されていた北岡杉雄先生が、松の再生を夢見て、四半世紀以上にわたり試行錯誤の植樹を続け、孤軍奮闘した足跡が、教え子との交流とともに描かれています。
この物語の出来事は、当時の新聞に取り上げられていますので、図書館などで実際に当時の新聞を読んでみるのもいいかもしれません。
現在、ターナー島の松は見事に再生され、文化財登録制度による登録記念物になっています。
この他に、ターナー島の松の再生に関する図書として、次の図書があります。
『ターナーの松再生』 盛重ふみこ著 日興書籍 2003年発行(K653.6-モフ-2003)
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尾崎足(たんぬ)をご存知だろうか?
足が恩師「虚子」と志を同じくしながらも、その膝下を離れたのは昭和6年。反旗を翻したのではなかった。しかし足の俳句活動は、同じ師をもち、昭和の俳人として活躍した水原秋桜子、高野素十、富安風生とは仲間であったが、昭和俳壇史に全くその痕跡を残していない。
足の執筆は昭和7年より主宰していた俳誌『さへづり』、昭和27年に改題復刊した『さち』に限られる。その表紙に手刷り版画を提供し続けたのは同郷の親友、畦地梅太郎である。50名前後の誌友とともに生きた生涯は、世に知られることはなかった。
しかしながら尾崎足もまた「俳句の将来」を憂えてひたすら自らの信ずる道を探究し、生涯を終えたひとりの昭和の俳人である。
生涯をかけて万物の一つとしての人間の幸福とは何か、正しい道を探る「至善の闡明」を天命と自覚し、芭蕉を遠く師とし、虚子の「花鳥諷詠」の思想を継承し、批判することによって、俳句は季題を賛美する詩であるとする「至善俳句」を確立した。
その内容がどういうものであったか、「足俳句論」の全体像を明らかにする。
『足あと 尾崎足遺句集』 尾崎足著 菅貢 1982年発行(H099-TO)
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鴻農周策(こうの しゅうさく)さんというNHKディレクターの方がいらっしゃいました。松山放送局でも数々の番組を作ってこられました。人間が好きで、人間の生活や気持ちを出すことを心がけ、大衆のいるところに行って番組を作っていました。そして、番組作りを通して人間のよろこびや怒りや悲しみを見ていました。
そんな一生懸命な鴻農さんは病に倒れます。骨髄腫という骨のガンでした。鴻農さんは愛する家族に見守られながら、進行していく病気と闘いながらも以前にもまして真剣に番組を作り続けます。ジャーナリストとしての目を、障害者、病人、老人、子どもといった社会の中で弱い立場にいる人々に多くを注ぐようになります。
鴻農さんは闘病中にある本に出会います。川口武久さんの『しんぼう』という本でした。川口さんは松山市内の病院で筋萎縮性側索硬化症という治る見込みのない病気を背負いながらさまざまな活動をしておられた方です。鴻農さんは『しんぼう』を詠んだころから川口さんと番組を作ろうと決心し、持てる力をすべてふりしぼって番組「命燃やす日々」を作っていったのです。しかし、完成目前に永遠の眠りについたのです。
このほか闘病記をテーマにしたものに、次のような図書があります。
『しんぼう』 川口 武久著 静山社 1983年 (493.6-18)
『命いっぱい生きた日々』 鴻農 周策著 日本放送出版協会 1994年 (K916-107)
『僕はガンと共に生きるために医者になった』 稲月 明著 光文社 2002年(K916-イア-2002)
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伊予にまどかなカラスが住んでいた。朝早くから日が落ちるまで、まめに働くカラスの楽しみは道後の温泉で一浴びすること。
冬、白ヤギの郵便屋さんが届けてくれたハガキは、「五匹」「温泉に行く」としか読めない、差出人が「東京セントウ」という謎めいたものでした。
何のことだかさっぱり分からず、それでもお客さんを迎える支度をしていたカラスのところにやってきたのは、浮かぬ顔をした「鶴」「亀」「竜」「熊」「鳩」。みんなは、東京の銭湯の持ち主だったのです。
そして、湯めぐり旅行でカラスの評判を聞きやってきたと言う訳で、カラスは早速温泉に案内します。
大きな湯舟にたっぷりのお湯。温泉はぽっかり暖か。
みんな体の芯からほかほかになって、リラックス。大きな熊は、亀と鳩のやりとりに思わず吹き出し、ついでにお尻からも「ブワーファファー」。
作者の藤原一枝さんは、松山市出身。東京で、小児科医として長く勤務した後、現在は人間の暮らし一般の質を考える「藤原QOL研究所」代表として、数多くの著述、講演を行っている。
絵本の作品で『雪のかえりみち』(岩崎書店)は平成13年度児童福祉文化賞を受賞している。
道後温泉の情景の描写に、思わず温泉に行きたくなること請け合いの一冊。文中に出てくる伊予弁も、ユーモアを醸し出している。
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「よもだ」「ちゃんがら」などの伊予弁と懐かしい昭和の風景満載の絵本です。
学校が終わると近所の駄菓子屋に集まって遊ぶ子どもたち。昭和の小学生の放課後の定番ですね。でも、この駄菓子屋「よもだや」の「よもだバア」の鳴らす鈴の合図で外に出ると、そこは昭和の時代「ちゃんがら町」の入り口で…。
子どもたちは不思議な探検に出かけます。河童洞ではかっぱがうようよ。稲荷神社ではきつねがじろり…。なべやきうどんの「ことりてい」、みかん山のトロッコ、田んぼのわら山…。次々出てくる見たことがある景色は、まるで愛媛の…。そうです。作者山本孝さんは愛媛県松山市出身の絵本作家なのです。一度見たら忘れられない力強いタッチと色遣いが魅力的な絵で、新しい絵本が出るたびに手に取りたくなります。すみずみまで見逃せない楽しい絵の中でも、目を奪われるのが夕焼け空。とにかく空の色がきれいです。愛媛の美しい自然の中で育ったおかげでしょうか。
絵をじっくり見た後には、ぜひ声に出して読んでみてください。伊予弁(関西弁が混ざったような?)の会話文が多く、読み聞かせをして受けることも間違いなしです。子どもにも大人にもおすすめの絵本です。
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伊予鉄道の最初の路線である松山・三津間が開業したのは明治21年です。これは東海道本線が全通する1年前の話であり、現存する私鉄では南海電鉄に次いで2番目の歴史を誇っています。それでは、四国の地方都市にすぎなかった松山の地に全国に先駆けて鉄道が敷かれたのはなぜでしょうか。
ここで紹介する『走れ、坊っちゃん列車』は、こうした疑問に分かりやすく答えてくれています。この本は坊っちゃん列車自身がその誕生から現在までを語るというユニークな手法をとっていますが、単に坊っちゃん列車や伊予鉄道の歴史を語っているだけでなく、愛媛における明治期以降の産業勃興の有様を雄弁に物語っているのです。
伊予鉄道の初代社長は小林信近という人で、元は松山藩の殿様に仕える小姓でしたが、明治維新によって禄を失った士族を救済するため、様々な事業を立ち上げました。そのひとつが鉄道事業であったのです。さて、伊予鉄道の開業がきっかけとなり道後鉄道、南予鉄道、松山電気軌道といったライバルが次々に松山に誕生し、競争と合併を繰り返した結果、現在の伊予鉄道の路線網が形成されました。ここは鉄道ファンにはたまらない部分です。
ところで、坊っちゃん列車という場合はドイツのクラウス社製等の蒸気機関車を指しますが、戦後の昭和29年、電車やディーゼル機関車に押されて姿を消しました。こうしたことは全国の鉄道で当たり前に見られたことでしたが、松山人の面白いところはこの坊っちゃん列車を復活させようと考え、伊予鉄道の英断もあってついにそれを実現したところです。この復活までのエピソードも大変面白い部分です。なお、関連する図書として下記のものがありますので併せてご一読ください。
『伊予鉄が走る街今昔』大野鐵・速水純著 JTBパブリッシング 2006年発行
(K686.9-オテ-2006)
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