タイトル 愛媛の歴史と文化

 

1 歴史と文化

 愛媛のあけぼのは、数万年前の旧石器時代といわれています。愛媛では、鯨遺跡(弓削町・現上島町、旧石器時代)、金ヶ崎遺跡(伯方町・現今治市、旧石器時代)、上黒岩遺跡(美川村・現久万高原町、縄文時代)、平城貝塚(御荘町・現愛南町、縄文時代)、阿方貝塚(今治市、弥生時代)など数多くの遺跡が発見されています。 

 古代には、愛媛は伊予国としてまとまり、今治市に国府がおかれました。この時代、天皇をはじめ、都の人々が数多く伊予の湯で体を休め、英気を養って次の目的地へ向かったといわれています。聖徳太子も訪れて、「伊予湯岡碑文」を残したと伝えられ、万葉時代の才媛、額田王は、「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と和歌を詠んで船出してゆきました。
 平安時代には、宇和海の日振島を根拠地として藤原純友の乱(承平・天慶の乱)がありました。

 源平合戦(治承・寿永の内乱)では、河野氏が水軍を率いて源氏方として活躍し、室町時代には伊予国の守護になりました。鎌倉時代後期には、河野氏の一族の一遍が全国各地を遊行し、多くの人々に踊り念仏をすすめ、時宗の開祖として知られています。
 中世には、瀬戸内海で水軍が活躍し、伊予国でも、南北朝時代の忽那水軍、戦国時代に勢力を誇った村上水軍等が有名です。

 江戸時代には、伊予国は八藩(西条・小松・今治・松山・新谷・大洲・吉田・宇和島藩)に分かれ、能や茶、文楽など各藩で特色をもった文化が育まれました。このことが、今日の多彩な愛媛の文化に繋がっているといえます。 
 また、幕末の宇和島藩では、洋学の導入に努め、二宮敬作などのすぐれた蘭学者を生むとともに高野長英や村田蔵六(大村益次郎)などを招き、砲台の築造や軍艦を建造するなど、雄藩として活躍しました。 

 明治になって、八藩は整理され、明治6(1873)年に愛媛県が発足しました。この時代、正岡子規が俳句革新を行い、子規のもと、河東碧梧桐、高浜虚子らが集い、雑誌「ホトトギス」を中心に活動が展開され、俳句が愛媛の風土に定着しました。現在、俳句王国として、「子規記念博物館」のほか、県内に約900基の句碑が点在し、県民に幅広く親しまれています。 
 また、ノーベル賞作家の大江健三郎や早坂暁などの作家を輩出するとともに、夏目漱石の「坊っちゃん」や司馬遼太郎の「坂の上の雲」など多くの名作の舞台や題材となっています。


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 国指定史跡「能島城跡」
          (今治市宮窪町)



画像 正岡子規

   「正岡子規」