私の教育実践

生徒に教えられて

愛媛県立しげのぶ特別支援学校 校長 武智一郎

―浜っ子たちとともに―
八幡浜市立愛宕中学校 教諭 田丸純一
生徒に教えられて

愛媛県立しげのぶ特別支援学校 校長 武智一郎


県立しげのぶ特別支援学校長 武智一郎 
愛媛県立第三養護学校(現みなら特別支援学校)に赴任したのは、昭和51年のことだった。物理を専攻した私は、障害者のことも、ましてその教育のことも何一つ知らず、障害者の世話というものは福祉と博愛的ボランティアによって支えられているのだろう位にしか考えてなかった。当時は、従来の盲・聾学校に加えて、肢体不自由、病・虚弱、知的障害の養護学校が次々と設置され、教育に携わる先生方の熱意は新鮮で力強かったが、社会一般には養護学校は福祉施設の一種くらいに思われていた。もっとも、赴任するまでの私も御同様だったから、この点は憤ってみてもしかたがない。

 
赴任当初はまさに五里霧中で、先輩をまねて動く日々だった。毎日1校時はリズム体操で始めていたから、初任者の研究授業の際に真面目に踊ったら、批評会で「子供と一緒に一生懸命踊る先生は珍しい」と変な褒め方をされたり、先輩の先生から「今の授業で子どものどこが伸びたのか」と一見もっともな、しかし答えようのない無茶苦茶な質問をもらって悩んだりで、気付くと一年が過ぎていた。そんな私には「教育実践」を語るのは面映い。むしろ生徒から教えられたことをいくつか披露したいと思う。

 
高等部の生徒3人に紐の結び方を教えていた時のこと、何日経ってもできず、こちらも熱くなって教え込んでいた。ある時生徒も嫌気がさした様子なので、気分転換に外へ連れ出した。校庭の端の小山でのんびり座っていると、生徒が大声ではしゃぎ出した。振り向くと放置してあった三輪車に拾った紐を結んで引っ張って遊んでいる。どの子が結んだのか分からず、もう一度やらせると全員できないという迷宮入りミステリー。もしや本当はできるのに、私が無駄な指導で邪魔していただけなのだろうか。
 
またある時は言語の不明瞭なダウン症の子を指導していて数ヶ月。少し言葉がはっきりしてきたように思ったので、先輩に「あの子、最近言葉がはっきりして聞き取りやすくなったと思いません?」と聞けば、答えは、「変わってないよ。あんたが聞き慣れただけよ。」…なんだ、教育されていたのは私の方だったのか。

 
一人の自閉傾向の生徒は、私が指導しながら熱を帯びてきてがんがん言って聞かせると、「いじめないでください」と言い始める。こちらも若さ余って「いじめてないだろうが!」と声も大きくなる。すると「いじめないで」の連呼もエスカレートする。後で思えば私の声か表情のどこかが彼にはいじめに等しかったのだ。その時一度立ち止まって、彼の心の中にあるものについてもう少し考えてみればよかったのに。何度このような失敗を重ね、何度この同じ後悔の気持ちを噛み締めたことだろうか。
 
盲学校で出会った、中途失明の少年。真面目で頑張り屋、成績も優秀だったが、ある時忘れ物が目立ち、よく食事をこぼすようになり、授業の聞き漏らしが目立った。私は「お前らしくもない。しっかりしろ。」と厳しく苦言を呈した。数ヶ月後、彼の失明の原因である脳腫瘍の再発が分かった。手術困難な場所への再発で、ほどなく彼は逝った。当時の私はその予兆に気付くことができなかった。今の私なら気付いただろうか。それとも気付いても遅過ぎたろうか。

 
思えば私は随分と生徒の発達を阻害してきたのかも知れない。生徒たちが私に一生懸命教えてくれていたのに、できの悪い私は年をとるまでそれを学ばなかった。今私は若い先生方に、子どもの心に寄り添え、心情を理解せよと口癖のように言っている。しかし、彼らが真に気付くには、また年月を要するのだろう。このサイクルを何とか短縮できれば教育も随分進化するだろうにと歯がゆい。今となってはこの気持ちの一端なりとも後輩に伝え、微力ながら生徒からの頂きものをお返しせねばと思うのみである。



―浜っ子たちとともに―
八幡浜市立愛宕中学校 教諭 田丸純一

八幡浜市立愛宕中学校 教諭 田丸純一 私が勤務する八幡浜市立愛宕中学校は、港町八幡浜を一望する愛宕山の中腹に位置する。すこぶる見晴らしがよく、佐田岬半島はもちろんのこと、空気が澄んでいる日は遠く九州の山々の峰の形すら見分けることができるほどである。また、生徒たちが部活動を終える頃、ちょうど校門を出た真正面に沈む、この上なく美しい夕日も、我が愛中の誇りである。
 さらに自慢できるものに、学校全体を包み込むように咲き誇る桜がある。我が校の校歌には、「やがて母校に花咲きて 桜と共に巣立つとも 助け進まん我が友よ 永久に続かん師弟愛」という歌詞があるほど、桜に対する思い入れが深いのである。まさに入学から卒業までを、先生や保護者、地域の方々にだけでなく、満開の桜にも見守られながら過ごすのである。
 このように恵まれた自然環境のもと、さらに温かい家庭・地域に育った生徒たちは、のびのびとおおらかで、しかもお祭り好きという浜っ子の気質を受け継いでいる。学校や地域の行事では、その気質を存分に発揮し、さらに元浜っ子(保護者)のバックアップもあり、毎年汗と涙と感動があふれる活動を展開している。

 さて、幸運なことに私は、昨年度まで「授業のエキスパート養成事業」に参加する機会をいただいた。特に美術科では、「美術科における言語活動のあり方」について研究を深め、実践に勤しんできた。中央教育審議会答申(H20.1)では、美術科においては「コミュニケーションや感性・情緒の基盤という言語の役割に関しては、例えば、体験から感じ取ったことを言葉や絵、身体などを使って表現する。」と例示されており、「言語活動の充実」が一般的な国語力の育成と同じではないということは言うまでもない。しかし、だからといって、美術科だけの完全に独立した言語活動が存在するわけではなく、その前提として国語力をはじめとするさまざまな基礎的能力の上に、それらは互いにかかわりあい、高め合う関係にあるのではないだろうか。

 さらに私は、美術科に限らず「言語活動の充実」の前提として、生徒間、あるいは生徒と教師間に、「安心して自己表現できる環境(信頼関係)」が必要であると考える。ただしこれは、「褒め合う関係」のことではない。肯定も否定も含め、「全てを受容し合う関係」のことである。
 ここ数年にわたり、この観点に立って教材を開発し、授業改善を行い、さらに学級や学年経営を通して、この「安心して自己表現できる環境」づくりに努めてきたつもりである。しかし本校においては、これらの実践が子どもたちの成長にどうかかわったかの検証が甚だ困難である。なぜならば、前々段で述べたような環境や気質のおかげで、恐らくもともと「安心して自己表現できる」土壌が子どもたちに備わっているからである。我々の実践は、その個人差を補う程度に過ぎないのではないか、感謝と希望を込めて、そう思う今日この頃でもある。ただ、この浜っ子気質の伝統も、時代の変遷とともに少しずつ失われているような気がする。だからこそ、検証困難な実践であったとしても、日々継続し、浜っ子気質が続く限り成果が得られるよう努力していきたい。