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学校での指導経験に乏しい私は、直接生徒を指導する教員としての成熟度は低く、ご披露して役立つような実践例はあまりありませんが、自分が部活動指導を通して学んだことを、少し書かせていただきます。 私は新規採用の時、幸いにも母校である野村高校に勤務することになり、部活動は自分の希望どおり、大学時代に経験のある柔道部担当となりました。補習やクラスの生徒の面接などに忙しく、生徒と汗を流す時間は十分取れませんでしたが、生徒と組み合っても、大学時代の力がまだ残っており、生徒に投げられるようなことはありませんでした。自分でも、生徒に負けないだけの力は保っておきたいとの気持ちもありましたので、結局母校にいた九年間、一度も生徒に投げられたことはありませんでした。しかし、定年退職を前にして今考えてみますと、一度も投げられなかったことは、私が良い指導者でなかったことの証のように思えます。おそらく良い指導者であれば、時には力を抜いて、しかしそのことを悟られないようにして、投げ飛ばされてやったことでしょう。そして、「やられた。だいぶ強くなったな」とか「今の技はよく効いた。だいぶ練習したな」とか言って、生徒を褒めてやるに違いありません。自分にはそのような度量や配慮がありませんでした。厳しさや強さを見せるだけでなく、時には弱さやかっこう悪さを見せるほうが、教育として大きな力を持つことを、ほろ苦く反省している次第です。 次に転勤した八幡浜高校では、一転してまったく経験のない女子バレーボール部の顧問となりました。柔道部には、すでに専門の先輩教員がおられたからです。「女子バレーボール部の指導者が転勤し、人がいないので、君はそれをやってほしい。」「私はルールも知りませんが、かまいませんか。」「いいから、やってくれ。」そんなことで、女子バレーボール部担当となり、その足でグラウンドのバレーボールコートに行きました。当時でも土のコートは珍しかったのですが、体育館は活躍していたバスケットボール部が使うことになっていました。私がバレーボールコートに行くと、走り寄ってきた部員が半円形に私を囲み、声をそろえて「お願いします。」と言うので、自分はルールも知らないが、一生懸命やるのでよろしくと答えました。正直、何をやっていいのかまったくわからず、不安でしたが、とにかく自分は一時のつなぎだろう、自分のできる範囲のことを、わずかでも一生懸命やるしかないと考えました。ところが、やってみると、まったく素人である私にできることがいっぱいあるのです。練習に出てじっと見ていること、気合が入っていない部員に気合を入れろと言うこと、体調が悪そうな部員に目を配ること、ボール拾いをすること、指導書を読んで勉強すること、練習試合をお願いし、引率すること、そして「プレーのこつをあの先生に教えてもらえ。」と指示することなど。実際には自分にできないことなどほんの少しであるのに対して、できることは手に負えないほど多くあることに気付きました。あれもできる、これもできる、しかし、時間がなくて、あるいは自分の努力不足でできない、というのが現実でした。たしかに、長いプレー経験の中で会得した技術向上のこつを教えることや、試合中に相手の作戦や弱点をすばやく察知し、早めに的確な指示を与えることなどはできず、生徒たちは「専門の先生が来てくれれば、自分たちはもっと勝てるのになあ。」と残念に思っていたでしょうが、自分にできることをがんばれば、ある程度補いはつくものだということを学びました。結局、八幡浜高校に勤務した九年間ずっと女子バレーボール部の顧問を続け、その間二度ばかり四国大会にも出場できましたし、それより何より、当時の部員が今も時々「皆が集まりますが、来ませんか。」と声をかけてくれることを、たいへんありがたく思っています。 私たちは仕事の上で、困難に遭遇し、不安に駆られることが時々ありますが、まずは自分のできることを一生懸命行うことで、だんだんと解決の道が開けてくるように思います。できないこともあるが、できることもたくさんあること、そして、それに積極的に取り組むことの大切さを、私は部活動の指導を通して学んだように思います。 |
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子どもたちのトラブルの多くは、言葉が原因となっています。ちょっとした言葉で傷つけたり煽ったりします。大人も同じです。この言葉を使ったら相手がどう受け取るだろうか、どういう言葉を使えば相手の心にすっと沁みるだろうか、そう考えて言葉を遣うことができたら、どんなに豊かな人生になることでしょう。言葉を磨く…それは、子どもたちが大人になるにつれてたくさんの人と出会うほど、大切なことだと思うのです。私が俳句指導に力を入れ始めたのは、そういう考えからでした。 短詩型表現に親しませる 俳句は、17音しかありません。文字数が少ないということは、とっつきやすいように見えて案外難しいものです。そこで、「日本一短い手紙」(字数制限なし)や「心に響く三行ラブレター」(60字以内)、「はがき歌」(短歌形式)など、機会を見つけて短詩型表現力に親しませておきます。いずれもメッセージ性が強いので、自分や相手の心を深く見つめ、人間関係を育てることにも役立ちます。
俳句は、一瞬を切り取るしかできません。その一瞬とは、日常のはっとした驚きや、おやっという発見です。そのサイズには日記が適しています。日記を通して物事を見つめる、それは、観る目、感じる心を養うことにもつながり、自分史を刻むことにもなります。 推敲に時間をかける 俳句は、詠み手と読み手が感動を共有するものです。感動させるには、写真でもなくビデオでもなく、言葉で実物を見せることが一番です。そのことを子どもたちに分かってもらうために、バイキング料理に例えてみたりします。俳句という小さな皿に料理を盛るのに、卵焼き、温泉卵、オムレツと卵料理だけを並べるよりも、唐揚げ、サラダ、デザートといろいろなものを載せた方がおいしそうに感じると。つまり、季重なりや感情語が無駄になることを例えています。それを、どこで、誰と、などの言葉に換えると、より情景がはっきりしてきます。また、同じ雨でも、天気雨、にわか雨、霧雨などと、多様な表現ができます。高学年ほど、言葉を選び、並び替える作業に時間をかけるようにしています。 吟行に出かける 俳句は、みんなで楽しむものです。吟行に出かけるのも楽しみ方の一つです。地域に住む俳人がゲストティーチャーになってくだされば最高です。花鳥風月に精通しておられて、子どもたちに草花や虫の名前、気候の言い表し方、行事のいわれなどを教えてくれることでしょう。そしてそれが、無理のない季語の指導ともなります。
俳句を作ることは、心を磨くことです。子規の生まれ育った松山で、これから子どもたちのどんな俳句と出会えるか、楽しみにしています。 |
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