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WYSHプロジェクトの授業後のアンケートからも、第二次性徴に対し「気持ち悪かった」というネガティブな感想をもった児童は、両クラスを通じ全国平均(約半数)よりかなり少ない5%(3名)でした。また、授業を通して「今の自分のままでよい」「自分を大切にする」という自己肯定感が向上しました。 |
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私は、現在、愛媛県高等学校文化連盟放送部会長をつとめています。放送部との関わりは突然に訪れてきました。昭和63年、伊予高校創設6年目の年でした。当時伊予高校は、創設以来すべての学校行事を映像として記録していました。放送部は熱心で厳しい仲田秀雄先生(現城南高校教頭)の御指導のもとに、最新の放送機器を駆使し、NHK杯全国高校放送コンテストにも連続して出場していました。その仲田先生が、マレーシアからの留学生を事前指導するために、現地に2年間派遣されることになり、視聴覚機器を扱うことができ、打たれ強い私が後釜に座ることになりました。 仲田先生の御指導は部員に徹底していました。放送部の生徒は、朝礼のある日は朝早く登校して全ての準備を整えていました。そんな伊予高4期生の3年生に指導されながら、放送コンテストのいろはを学びました。ラジオ・テレビ番組の制作には驚くほど長い時間を要します。作品応募の締切直前まで手直しは続きました。20代の若手2人の先生からの「全国へ行けなかったら顧問のせいですね」という遠慮のない叱咤激励の影響もなく、前顧問の遺産を生かして、この年も全国大会へ出場しました。NHKホールでの大会を初めて見て、そのレベルの高さに驚きました。また、3年生の指導を受け、全国大会に参加した五期生部員の、全てを吸収しようとする輝く瞳・真摯な態度に、培われていく伝統の力を感じました。 夏の全国大会を終えても、伊予高放送部にはまだ大切な仕事が残されていました。卒業式のプロローグとして、卒業生の高校入試合格発表から卒業までの高校3年間の思い出を、映像と音声で印象に残る番組に編集し、保護者の皆様にも見ていただくのです。冬休みから、今年のコンセプトは何か、集めた情報の取捨選択、ナレーションやBGM、それぞれの役割を決め、卒業式前日まで視聴覚教室に籠もりきりでした。あの日・あの時を振り返りながら「伊予高に学んでよかった。」との思いを先輩たちの心に残そうと、前日まで5期生部員の努力は続きました。 この献身的な使命感に燃えた部員たちに出会わなかったら、放送部の指導には携わらなかったかもしれません。翌年は「元年総体」が愛媛で開催され、伊予高放送部は男子バスケットボールの全試合を録画し、試合会場でのアナウンスも担当しました。部員たちは、やりがいのある仕事を責任を持って遂行してくれました。この間、NHK松山放送局にお願いして、技術的な指導もしていただき、生徒達の技量も確実に向上しました。翌年も全国大会入賞者のテープを手本にして、県大会でアナウンス部門最優秀に輝く生徒もでました。生徒は無限の可能性を秘めています。7期生の卒業式には3年生の思い出をビデオで放映しました。最後の鵬翔が飛び立っていくシーンとともに私の伊予高校での生活も終わりました。 次に転勤した松山東高校は学校行事に燃える生徒達が沢山いました。ボートレース大会は梅津寺まで機材を運んで、ここでも部員達は早朝から働いてくれました。歴史的な編集機材には驚かされましたが、新しい機器を取り入れると、めきめきと能力を発揮してくれました。その中に首藤奈知子アナウンサーもいました。失敗にくじけず、切り替えの早い、いつも明るさを失わない姿が印象的でした。 現在、高文連放送専門部では、他県の講習会にも積極的に参加する佐藤部門長を中心に、夏の講習会にはNHK杯で審査員を務めた講師の先生に指導を仰ぎ、高文祭の審査員にはNHK杯でアナウンス・朗読で優勝した方に審査・講評をお願いするなど、全国を目指した指導を続けています。昨年、松山南高校がTVドラマ部門で全国2位、ラジオドラマ部門3位になりました。愛媛県高校放送部の今後が楽しみです。 |
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