私の教育実践


 ああ生活科、されど生活科(未知なるものとの出会い)
砥部町立麻生小学校 校長 渡部 智磨子 

 私の教育実践~若き気概~
県立松山南高等学校 校長 仲田 正夫 


ああ生活科、されど生活科
(未知なるものとの出会い)

砥部町立麻生小学校 校長 渡部 智磨子

 私と生活科との出会いは、ほぼ四半世紀前。平成元年、35歳の時だった。「理科と社会がなくなって、新しい教科ができるんだって?」「なんでも直接体験を中心に、子どもたちに体を通して自立の基礎を身に付ける教科だそうよ・・」当時、生活科の内容についてはあまりにも漠然としていたし、今ほど研究も深まっていなかった。ただそれまで低学年の学習に物足りなさを感じていた私は、「子どもの思いや願いを大切にしながら、体を通して自立の基礎を身に付ける」というこの教科に興味を持った。自分流に言うと、それまで、「おらが主役」でやってきたものを「あんたが主役」に替えて子供に寄り添い、一人ひとりの思いや願いを大切にし、自己決定の場をたくさん保障していくことであった。この実践で、これまでの自分の教育観が百八十度変わり、何をしても「子供ってすごい!」と思えるようになっていった。特に学習指導要領もない試行期間だったので、地域に目を光らせ、自己流で教材開発に励んだものだった。しかし、今思えば無駄と思われる活動も多々あり、当時の同僚や先生方には大変な迷惑をかけ、本当に申し訳なく思う。

 それでも、その時は必死だった。大阪教育大学附属天王寺小学校が先進的な研究をしていると聞けば、せっせと重いビデオカメラ(当時は大型が主流だった)を担いで、大勢の参観者を避けるため、高鉄棒の上から一生懸命バランスをとりながら身を乗り出して撮影した。それを主任会に持ち帰り、まるで特別試写会のように得意そうにお披露目した。また、生活科の生みの親である文部省(現文科省)教科調査官の中野重人先生が、講演で「ああ生活科、生活科。吹いて飛ぶよな生活科」という悲しい言葉で生活科スタートの窮地を訴えた時には、会場から手を振って応援メッセージを送ったものである。そんなこんなで私は、新しく誕生した生活科の虜となり、「生活科は私のために生まれた教科」とまで錯覚するようになっていった。本当にあの時は、私の長い教員生活の中で一番情熱的な時期だった。一途に生活科に恋し、生活科以外には何も見えないほど盲目になっていたように思う。それでも、新しい教科が生まれるという劇的な場に立ち会えたということは、本当に幸運なことでもあった。

 生活科との出会いから約10年。突然別れが訪れた。県人権教育課へ配属となったのだ。5日間食事も喉に通らないほどショックを受けたが、常に相手の立場に立ちきり、人を大切にする人権教育の考え方と、子どもから学び、個を生かす生活科の考え方と根本は同じであるということに気付くのに時間はかからなかった。全教育活動のなかで人権教育の日常化を図ることが私の使命であると考え、自分なりに一生懸命力を注いだつもりだ。生活科だけにこだわってきた自分ではあったが、人権教育に出会って何とか自分がひと回り大きく成長したように思えた。

 その後、社会教育にも関わる機会を与えられ、いろいろな事業を経験させていただいた。社会教育は多種多様であるが、やはり重要なポイントは、「体験活動」である。まさに「なすことによって学ぶ」である。この時も、生活科での直接体験の意義が頭をよぎった。最近の子どもたちは生活体験が不足している。だから、学校でも体験活動を重視してきたが、限られた学校のカリキュラムのなかでは、子どもたちに自主的・実践的な態度を養うことは難しい。体験活動の舞台を学校から社会へと広げ、地域の大人も一緒になって学んでこそ、本物の体験と言えるのではないだろうか、としみじみ思うこの頃である。

 私の教員人生は、いろいろな経験が雑多ながらぎっしり詰まっており、こんな幸せ者はいないなと思う。こんな気持ちにさせてくれたのは、なんと言ってもワクワクするような未知なるもの<生活科>との出会いだ。その後の私を元気づけてくれたともいえる。教育の真髄は一つである。これからもあらゆることに興味を持って飛び込んでいき、チャレンジし続けていきたいと考えている。さて、もうすぐ定年を迎えるが、その時、私は何に恋しているだろうか。



私の教育実践~若き気概~
県立松山南高等学校 校長 仲田 正夫
 私がチョークを握っていたのは、教員生活の半分の十九年間しかないが、それだけ思い入れも深い。青き二十歳代の思い出を少し書かせていただきたい。

 昭和五十年、春。大学を出たばかりの私が松山東高への赴任を知らされたのは、新採内示の日の新聞。その後、授業と新採研修のレポートに追われる日々が続いた。

 迎えた夏の新採研修。松山南高の生徒を相手に数学の研究授業をすることになった。一週間前に、一度授業を見せてもらうことにした。担任の先生の授業を見ながら、指名された生徒の名前や特徴をメモ。授業後は座席表を写させてもらった。お蔭で授業後の批評会では、新採の仲間や指導主事のS先生から、生徒全員の名前を覚えていたことを褒められた。少しいい気分になった。ところが後で、あの日は生徒が一人休んだため、机を前に詰めていたことを聞かされた。私はそれとは知らず、「(前から四番目だから)Dさん」と指名していた。私が勘違いをしていると悟ったEさん。そんな素振りも見せないで「はい、…」。生徒の方が一枚も二枚も上手だった。生徒に助けられたほろ苦くも、なつかしい思い出だ。

 数学Ⅰ甲の定期テスト直前の休み時間。廊下を歩いていると生徒に呼び止められた。「試験前なのですが、教えてください」。う~んと思ったが、義務として教えた。実はこの問題、ばっちり試験に出ていたが、平静を装うしかなかったのだ。この生徒、次の定期考査のときも質問し、大当たり。しっかりポイントを押さえた勉強をしていればこそとはいえ、心底びっくりさせられた。

 生徒入れ替わり事件があった。双子の姉妹が、こっそりクラスを入れ替わって授業を受けていたという。私はそれとは知らず、指名まで。もう一方のクラスの先生にも気づかれなかったとか。今でこそ、生徒目線で、生徒一人一人をしっかりと見つめて、などと言っているが、おてんば姉妹に一本取られた。

 先生方からは、たくさんのことを学ばせていただいた。ある先生のお宅を訪問させていただいたときには、各種資料をカード式に整理しておくと、授業やHR活動の準備のとき助かることを教わった。さっそく真似させてもらった。今では、趣味のレコード整理にも生かされている。

 二校目は、海運と造船、みかんや養殖の町、伯方。
 まずは、住むところと食事。内示の翌日、フェリーに揺られて一時間半。学校に挨拶に行くとみんながキョトンとしていた。業務員のUさん「こんなに早く来た人は、初めて」。教員住宅は、道路の数メートル下にあった。玄関を開けて、びっくり。畳がない。畳を上げて、板の間の上に貝を並べていた。二階へ上るため靴を脱ごうとすると、「そのままで」。二階にも貝が所狭しと。住人のI先生、実は有名な貝の専門家。住まいは、貝の館と化していた。

 生徒は純朴で、人懐っこく、真面目な生徒ばかり。中学校を卒業すると今治の高校に抜ける生徒もいたが、大三島出身である進路課長のY先生は、島に残る子も今治以上の教育を受けられ、しっかりと進学実績が残せることを中学校や地元の人たちに見せつけようやないかと、我々や生徒を鼓舞。そんな尊敬できる素晴らしい先生から、数々のことを教えていただいた。そして、生徒たちは進学に就職に、私たちの期待以上に応えてくれた。

 同和教育課長のM先生からも、手とり足取り熱心にご指導いただいた。創作劇の上演、映画フォーラム、パネルディスカッション、地区別懇談会、等々。本だけでは学べない多くのことを学び、刺激を受け、人としての道を導いてくださった。ただ心残りは、「ここに、地区出身の青年との結婚を打ち明けられた父親が、思い留まらせようと娘に書いた手紙がある。文面のどこに問題があるか、読んでみないか」と言われたとき、すぐに「はい」と言えなかったこと。自分の非力さを見透かされそうで、はいと言えなかった自分が、今も情けない。

 大三島橋が完成したり、念願の野球部ができたり、四島(四高校)レクリエーション大会で親睦を深めたり、土筆採りに夢中になったり。そんな五年間の数々の思い出を胸に、伯方島を後にする日がやってきた。たくさんの生徒や先生に見送られ、フェリーがゆっくり、ゆっくりと岸壁を離れた。


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