教員生活38年間を終わります。愛媛で生まれ、幼・小・中・高・大学と愛媛で学び、愛媛で教員をさせてもらいました。愛媛で教わったことを、生徒にどう伝えてきたか自問しました。恥じ入るばかりです。
「教師の力量」とは何でしょうか。教師になるまでに獲得した力と、教師になった後で獲得する経験値の合計・合算ではないかと思うのです。勤務校で育むべきものは、後者になると思います。
最初の赴任地は南予・三崎高でした。親戚から譲ってもらった一着の背広をずっと着ていたように思います。生徒は純朴で、この地で教員生活をスタートさせてもらったことに感謝しています。当時、男子生徒は、牛の世話をしてから登校していました。女子生徒は放課後、弟妹の世話や家事が待っているから高校から帰りたがりませんでした。山越えする生徒は、集落が小屋を借り、そこで制服に着替えて通学していました。ある年、雪が積もりました。校長先生がポツリと「また、出稼ぎが多くなるなあ」と言われました。苦学している生徒のために若いなりに懸命に教育していたように思います。三崎高校創設時、視察にこられた教育長が詠まれた「この里に日本興せや鯉のぼり」のような気概がありました。久しぶりに家族で赴任地・三崎を訪ねました。当時、原付で家庭訪問していたことが思い出され、道々涙が溢れて止まりませんでした。
三島高に赴任したとき、地域の人から「高校を出てなくても小学校出の二人の偉人がいる。真剣に教育してください」と言われました。生徒指導に疲れたとき、正門にあるクスの木の幹にそっと手を添えたこともありました。何事にも一心不乱の時代でした。
松商勤務時には、春・夏通算七回、甲子園応援の機会に恵まれ、しかも「奇跡のバックホーム」で全国優勝したその場に居合わせました。ラグビー、軟式野球、ソフトボール、駅伝、陸上、弓道等、まさしく「校風人を造る」「正々堂々」の扁額そのままでした。松商100周年式典の際、県民文化会館(現ひめぎんホール)で緞帳が上がり、松商校歌が流れたとき、緞帳の陰にいた大先輩の先生が、おいおい泣いていた姿が目に焼き付いています。充実していましたが、あっという間の疾風怒濤の時代でした。
今治北高時代にも、春の選抜大会で甲子園応援の幸運に恵まれました。松商時代とは違った意味で、数多くの感動を分けてもらいました。また、勤務した各高校の校歌はなつかしく忘れ難き曲ですが、今治北高校歌の作曲家は、信時潔氏でした。今北の周年誌に「校歌の作曲家信時潔氏は、この校歌は本校だけではなく、全国の高校生のことを念頭に作曲した」というような趣旨のことが書いてありました。信時潔氏作曲の校歌には、もう出会うことはないと思っていましたところ、最後の勤務校、南宇和高校の校歌も信時潔氏の作曲でありました。私は南宇和高校の校歌も全国の高校生のことを思って作曲してくれた校歌だと思っています。
小松高時代にも、100周年行事を経験し、「積微力行」の伝統の重みを体験しました。一年目に式典と同窓会館(養正館)建設と寄付の段取りで苦労しました。二年目に養正館が落成したときには、一人家に帰って泣きました。まさに「積微力行」の時代でした。再度、松山商業に勤務し、松商デパート「商神祭」の復活に関わることもできました。
津島高時代、全校生徒192名在籍で、卒業時にも192名であった奇跡のような幸運に恵まれました。退学はもちろんのこと、不登校も保健室登校もなかったのです。先生方の御努力に感謝してもしきれません。
南宇和高時代は、朝登校すると、朝練習した運動部の生徒が私に正対して挨拶します。校長室に入るのに時間がかかります。新渡戸稲造先生の「本立而道生」の扁額と「勉学に体育に気力を」の扁額を眺めながら、「感動ある教育活動をしよう」と、あらゆる教育活動には「MISSINON(使命)、 PASSION(情熱)、 COMPASSION(思いやり)」を取り込んでほしい、と教職員に求めました。自主的なボランティア活動、文武両道の部活動、就職はじめ進学等の進路保障、農業科の活躍等とベクトルはあらゆる方向に伸びていきました。諸先生方の取組に感謝の気持ちでいっぱいです。
教員としてのスタートは南予でしたので、南予で教員としての基本を学びました。そして、最後も南予で教員生活を終わることになり、何か強く深い縁を感じます。
私事で恐縮ですが、私は14歳の時に父親と死別し、一人親の家庭に育ちました。母は朝早くから仕事に出て私を学校に行かせました。当時、一人親の家庭の子どもは、今では考えられないような事に遭遇しました。私が教員を目指した最大の要因は、私と同じような境遇にある生徒たちに、誰にも相談できず、心の中でそのことが原因で悩んだり、苦しんだりしているときに、「心配するな。私に出来たことが君たちに出来ないことはない」と伝えたいと思ったからです。
「困難な条件を抱えた生徒たちよ、後に続け」と念じながら、つたない文章を閉じたいと思います。本当にありがとうございました。
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