私の教育実践


私の教育実践―児童生徒、保護者の言葉に学ぶ―
愛媛県立新居浜特別支援学校長 印南 扶美恵
私の教育実践―春秋を重ねつつ―
愛媛県立宇和島南中等教育学校長 遠藤 真治



私の教育実践
-児童生徒、保護者の言葉に学ぶ-

愛媛県立新居浜特別支援学校長 印南 扶美恵

 

 愛媛の教師として講師時代を含めた35年間、私は特別支援学校に勤務してきました。一人一人のニーズに応じた支援を目指す特別支援教育の対象は大きく分けて、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由、病弱、知的障害、発達障害ですが、私は、視覚障害教育を除く五つの教育に携わることができました。私の前には、いつも明るい児童生徒がいて日々親しく語りかけてくれ、その言葉の中には、「私が学ぶ」という立場にさせられたものが数多くあります。その事例を当時の状況を懐かしく思い出しながら書き述べてみたいと思います。

 
 
○ 「あっ、コスモスがわらっとる!」
 34年前、松山より南には行ったことのなかった私は、南予は暖かいものと思い宇和養護学校(現宇和特別支援学校)に新採教員として赴任しました。気候は寒かったのですが、地域の人々の温かさは格段でした。ここでの8年間で教員としての基礎基本を教えていただきました。元気いっぱいの生徒たちを前に、国語の教員としてどう教えるか、上手く伝わっているのだろうかと迷っていたある日、校外学習で八幡浜に出かける機会があり、そこで普段話し言葉の少ない中学部の女子生徒が、コスモスの群生をみて、「あっ、コスモスがわらっとる!」と満面の笑みで言いました。風に揺れるコスモスがYちゃんにはそう見えたのだなと、その感性の豊かさとくったくのない笑顔に、私自信の肩の力も抜け、生徒の目線に立ち心に寄り添う支援の大切さを実感しました。以後、心と言葉を大切にしながら授業を行いました。今でもYちゃんのあの笑顔は目に浮かびます。
○ 「先生、養護学校に来てまで・・・」
 2校目の今治養護学校(現今治特別支援学校)では11年間勤務し、高等部が開設された年に部主事となりました。学級編制について学校としては考えた末に能力別としたのですが、入学式早々保護者の方から「先生、養護学校に来てまで差別されるんですか。」との訴えがありました。「一人一人の発達段階やニーズに合わせて一番伸びていけるよう考えています。任せてください。」と答えたのを覚えています。卒業時には、「入学して良かった。ありがとうございました。」の言葉をいただきました。ここでは、保護者の思いを共有することの大切さを学びました。
○ 「分校長先生、どこ行っとったん?」

今年度を含めて3年間、新居浜特別支援学校に勤務しています。教頭時代、まだ今治特別支援学校新居浜分校であった時に2年間勤務していましたので、松山聾学校勤務の2年間を挟んでの言わば二度目の勤務となりました。2年間で一段と逞しくなった児童生徒や当時お世話になった先生方が温かく迎えてくれました。そのような中、赴任して1週間が経ったころ小学部の男子児童が「分校長先生、どこ行っとったん?」と聞いてきてくれました。この言葉から、この児童の中では、2年前の分校長時代の私と今の校長時代の私が繋がっているのだなと嬉しく思うとともに、この子どもたちの笑顔に再び出会えた喜びを噛み締めました。

 
 障害のあるなしにかかわらず、児童生徒の心はいつも美しくて澄んでいます。このような児童生徒に囲まれて教師生活を送ってきた私は、幸せだなと思います。来年3月で教職を辞して違った立場になっても、共に生きる社会の仲間としてまた多くの方と出会い、その方たちの言葉の中からまだまだ学んでいきたいと願っています。
  
私の教育実践ー春秋を重ねつつー
愛媛県立宇和島南中等教育学校長 遠藤 真治
 
 

1 野球部のこと

 昭和54年、八幡浜工業高校の辞令をいただき赴任先に挨拶に伺うと、「野球部の監督をやってほしい」とのこと。驚きつつも、自ら中高校と白球を追った経験もあり「宜しくお願いします」で始まった教員生活。風邪ぎみで臨んだ猛暑の練習試合、激しい悪寒に襲われ、試合が終わって病院へ行くと40度近い熱で熱中症との診断。1週間寝込んで学校に行くと、「嫌でやめた?」との憶測が流れていたとのこと、皆で爆笑。
 
 
 新採の若造が自分色を出そうと焦った末に、選手の気持ちが離れ空回りのなか、お隣の八幡浜高校と夏の大会1回戦で対戦。当時、八高は春季県大会で優勝し甲子園目指して大いに盛り上がっていたころ。当日の試合はすべて選手に任せたら、延長の末に勝利。生徒の可能性、潜在能力に驚く。翌年入学してきた選手たちが力をつけ、私が転勤で去った翌年、春季県大会で初優勝との報に接して、再び驚く。野球との関係は今治南高校、松山西高校としばらく続く。縁した選手たちは、今では立派な父親へと成長している。
 
2 特別支援学校で(当時は養護学校)
 2校目で初めて特別支援学校に勤務。児童・生徒を喜ばせようと、自ら手がけた脚本をもとに、時間を忘れて同僚たちと自作のVTR教材を人形劇風に制作。2年連続で県の自作視聴覚教材コンテストで受賞の栄誉を得た。
 
3 日本史の教員として
 当時は年功序列の時代、専門の先輩がいると希望の「日本史」が担当できず無念の思い。3校目でようやく願いが叶い、毎時間の授業や教材研究に力を注ぐ。松山西高校、大洲高校で生徒への小テストと追試に明け暮れる。同僚と力を合わせ、気が付けば模擬試験で県1位を達成したことも。11年間お世話になった大洲高校では、自作の授業プリントが大手出版社の目にとまり、出版依頼が舞い込む望外な幸運を得た。今も一般書店の書棚に日本史受験用教材として手がけた2冊の本が並ぶ。日本最高峰の大学に進学した生徒たちと時間を忘れて2次対策に格闘した日々や、教え子から日本史の教員が出たことも嬉しい。
 
4 管理職の時代
 合計11年にわたる管理職時代のことを、少々記す。
 
① 宇和島南中学・高校~中等教育学校(教頭) 
 中・高併設期を経て、中等教育学校への完全移行期に遭遇。何もかもが初めての経験で、山積する諸問題に「一歩も引かず」の気概で臨んだ。
 
② 松山東高校(教頭)
 本館全面改築に伴うプレハブ移転、新校舎への引っ越しに責任者で関わる。XデーやZデーと銘打ち二度の移転を挙行、新校舎に生徒の笑顔が溢れるのを見て達成感を満喫。最難関の大学を目指す生徒らと日本史の2次対策等で、がっぷり四つに関わったことが懐かしい。
 
③ 松山盲学校(校長)
 某研究大会での講演に触発され「生徒が通学する学校周辺路をきれいに」と、自ら清掃に力を注ぐ。また、「寮に幽霊が出る」との噂が流れ、宿泊を怖がる生徒が続出。ならば「校長がその部屋に泊ろう」と宿泊。それ以来、噂が立ち消えとなり寮は平穏に。
 
④ 宇和島南中等教育学校(校長) 
 文部科学省へ出向き、「宇和島のうみ・やまから世界を考える」をテーマに、二度のプレゼンテーションに挑戦。地方から世界に通用する若者を育成する必要性や地域再生への希望を、冷や汗混じりに熱く語った。結果、全国の名だたる名門校に混じって、平成27年度から5年間、文部科学省のSGH(スーパーグローバルハイスクール)指定校に決定。その後は超多忙の日々を極めたが、生徒が生き生きと輝く場面を目の当たりにして、苦労が喜びに倍加。今後の生徒の成長を期して、拙文を閉じる。