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1 野球部のこと
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昭和54年、八幡浜工業高校の辞令をいただき赴任先に挨拶に伺うと、「野球部の監督をやってほしい」とのこと。驚きつつも、自ら中高校と白球を追った経験もあり「宜しくお願いします」で始まった教員生活。風邪ぎみで臨んだ猛暑の練習試合、激しい悪寒に襲われ、試合が終わって病院へ行くと40度近い熱で熱中症との診断。1週間寝込んで学校に行くと、「嫌でやめた?」との憶測が流れていたとのこと、皆で爆笑。
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新採の若造が自分色を出そうと焦った末に、選手の気持ちが離れ空回りのなか、お隣の八幡浜高校と夏の大会1回戦で対戦。当時、八高は春季県大会で優勝し甲子園目指して大いに盛り上がっていたころ。当日の試合はすべて選手に任せたら、延長の末に勝利。生徒の可能性、潜在能力に驚く。翌年入学してきた選手たちが力をつけ、私が転勤で去った翌年、春季県大会で初優勝との報に接して、再び驚く。野球との関係は今治南高校、松山西高校としばらく続く。縁した選手たちは、今では立派な父親へと成長している。 |
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2 特別支援学校で(当時は養護学校) |
2校目で初めて特別支援学校に勤務。児童・生徒を喜ばせようと、自ら手がけた脚本をもとに、時間を忘れて同僚たちと自作のVTR教材を人形劇風に制作。2年連続で県の自作視聴覚教材コンテストで受賞の栄誉を得た。
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3 日本史の教員として |
当時は年功序列の時代、専門の先輩がいると希望の「日本史」が担当できず無念の思い。3校目でようやく願いが叶い、毎時間の授業や教材研究に力を注ぐ。松山西高校、大洲高校で生徒への小テストと追試に明け暮れる。同僚と力を合わせ、気が付けば模擬試験で県1位を達成したことも。11年間お世話になった大洲高校では、自作の授業プリントが大手出版社の目にとまり、出版依頼が舞い込む望外な幸運を得た。今も一般書店の書棚に日本史受験用教材として手がけた2冊の本が並ぶ。日本最高峰の大学に進学した生徒たちと時間を忘れて2次対策に格闘した日々や、教え子から日本史の教員が出たことも嬉しい。
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4 管理職の時代 |
合計11年にわたる管理職時代のことを、少々記す。 |
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① 宇和島南中学・高校~中等教育学校(教頭) |
中・高併設期を経て、中等教育学校への完全移行期に遭遇。何もかもが初めての経験で、山積する諸問題に「一歩も引かず」の気概で臨んだ。
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② 松山東高校(教頭) |
本館全面改築に伴うプレハブ移転、新校舎への引っ越しに責任者で関わる。XデーやZデーと銘打ち二度の移転を挙行、新校舎に生徒の笑顔が溢れるのを見て達成感を満喫。最難関の大学を目指す生徒らと日本史の2次対策等で、がっぷり四つに関わったことが懐かしい。 |
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③ 松山盲学校(校長) |
某研究大会での講演に触発され「生徒が通学する学校周辺路をきれいに」と、自ら清掃に力を注ぐ。また、「寮に幽霊が出る」との噂が流れ、宿泊を怖がる生徒が続出。ならば「校長がその部屋に泊ろう」と宿泊。それ以来、噂が立ち消えとなり寮は平穏に。
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④ 宇和島南中等教育学校(校長) |
文部科学省へ出向き、「宇和島のうみ・やまから世界を考える」をテーマに、二度のプレゼンテーションに挑戦。地方から世界に通用する若者を育成する必要性や地域再生への希望を、冷や汗混じりに熱く語った。結果、全国の名だたる名門校に混じって、平成27年度から5年間、文部科学省のSGH(スーパーグローバルハイスクール)指定校に決定。その後は超多忙の日々を極めたが、生徒が生き生きと輝く場面を目の当たりにして、苦労が喜びに倍加。今後の生徒の成長を期して、拙文を閉じる。
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