私の教育実践


私の教育実践―地理教師として―
愛媛県立松山東高等学校 校長 北須賀 逸雄
私の教育実践―子どもとともに言葉と絵本の楽しさを―
西条市立国安幼稚園 園長 桑村 美由紀



私の教育実践-地理教師として-
愛媛県立松山東高等学校 校長 北須賀 逸雄
  私は、大学で人文地理学を専攻した。高校までの地理については、私自身、興味関心が高かったものの、暗記科目という印象を強く抱いていた。 ところが、大学に入学し地理の授業を受けると、それまでイメージしていたような学問ではなかった。 例えば、今治市はタオル生産日本一であるが、そうした事実を捉えるだけでなく、そこを出発点として、なぜタオルの生産が多いのか、 また、なぜこのような地域性が形成されたのかなどについて考えていくのが大学の地理であった。 「なぜ」について考察を深めていく地理学は、新鮮でとても魅力的な学問であった。 就職を決める際には、高校においても、こうした視点を取り入れた地理教育をしたいと思い、教師を志願した。

  大学4年の7月に愛媛県の教員採用試験を受験した。この時はまだ教育実習を受講しておらず、面接時の質問にも「まだ行っていません」と答えたのを覚えている。 9月に入り、大学の附属高校で教育実習をした。 初めて教壇に立ち、地理を教えた。 見事に失敗した。 研究授業を数時間したが、いずれも自分が描く地理教育の理想ばかりが先行し、生徒のことを十分考えていない授業であったと思う。 授業後の批評も手厳しいもので、正直教師になることをあきらめようかとも思った。 この教育実習の体験が私の地理教師としての原点となっている。

  昭和54年に教師になり、新居浜南高校に赴任した。 当時は、本県でも大学等への進学熱が高まってきた頃である。 新居浜南高には、進学希望者だけでなく、就職希望者も数多くいたが、教育実習の反省に立ち、ともかく基礎基本を重んじた、分かる授業を心掛けた。 年齢が近いこともあって、生徒たちは親近感をもって授業を受けてくれた。 一方、大学時代に描いていた地理教育の理想は忘れたことはなく、常に持ち続けていた。 地理の指導法の研究にも取り組み、3段階認識による学習指導内容の構造図を用いた授業法を自分なりに考案してみた。 授業の進展とともに生徒の地理的思考が深まっていくこの授業法は、生徒たちからの反応もよかった。

 平成3年に新居浜西高校に赴任してからは、生徒に正しい国際認識を持たせる地理教育に取り組んだ。 高校生を対象とした国際認識についての調査を行ってみると、先進国と発展途上国のイメージには大きな隔たりがあることが分かったからである。 発展途上国に対する生徒が持つイメージには誤ったものもみられ、国際理解を進めるうえで大きな課題であった。 ビデオ教材を活用しながら、グローバルな視点から地球的課題を考察させたり、発展途上国の人々の生活や文化を共感的に理解させたりする地理学習に挑戦してみた。 現在、私が勤務する松山東高校は文部科学省のスーパーグローバルハイスクールの指定を受けているが、こうした国の教育政策により、海外に出かける生徒が増え、 国際理解も一段と進むようになった。 以前にも増してグローバル人材が育つ時代がやってきたと実感している。

 平成6年は高校社会科の大きな変革の年だった。 それまでの社会科は大きく変容し、高校社会科は地理歴史科と公民科に再編成された。 また、地理歴史科は世界史を含めて2科目4単位以上が必修とされ、生徒の能力、適性、進路に応じて選択できるようになった。 その結果、地理の履修生が全高校生の半数程度に減少するという状況が生まれ、改めて地理教育の重要性を再認識することとなった。

  「地理は見て、感じ、考えるところに面白さがある」と言った地理教師がいた。 かつてコートジボワールの農業についての授業をしたとき、「人々が生き生きしていて、たくましく感じた」「カカオの収穫に誇りを感じているようだった」と生徒たちは感想を話してくれた。 世界の人々は異なる環境の中で、我々と同じように精いっぱい努力し生きている。 その姿を浮き彫りにするとともに、外見的な特色ばかりでなく、風俗や習慣、ものの考え方を、社会や文化と合わせて、考え、理解してほしいと願って指導してきたので、とてもうれしかった。 地理教育の理想には道半ばであったが、生徒たちのために魅力ある地理の授業をつくろうとしてきた期間は大変楽しいものであった。 教師冥利に尽きる仕事であったと思っている。 これまで出会った先輩諸氏、同僚、そして私のつたない授業を受けてくれた多くの生徒たちに心から感謝申し上げたい。
   
私の教育実践
ー子どもとともに言葉と絵本の楽しさを

西条市立国安幼稚園 園長 桑村 美由紀

 人と人が関わり合って生きていくために、言葉はとても大切です。 子どもたちは自分に語りかけられる言葉を耳で聞いて言葉を覚えていきます。 様々な語彙を習得して自分で言葉を使えるようになっていく幼児期には、豊かな言葉を伝えていきたいと思っています。 日々の保育の中で、子どもたちに心のこもった豊かな言葉で語りかけたいと願いながらも、つい日常的な会話であわただしくその日が過ぎてしまいがちです。 そうした中で、美しい日本語で、楽しくて、豊かな創造力を育ててくれる言葉がいっぱい詰まった絵本は大切な存在です。 どの保育室にもじゅうたんのコーナーには絵本をたくさん用意し、いつでも読みたいときに絵本が手にとれるようにしています。

 毎日帰る前に、クラスみんなで絵本を聞くのはひとつの大切な活動です。 一日の終わり、ゆったりした雰囲気の中でお話の世界を楽しむひとときは、絵本で語られる世界を自分も体験しているようです。 初めは個人差がありますが、興味を示さなかった子もだんだん面白さが分かり、また、絵本を楽しんでいる友達の姿を見ているうちに感化されていくようです。 気に入った本を繰り返し読んだり、遊びの中で絵本のストーリーが展開されたりと、幼稚園生活の中に自然と絵本が根付いていくようです。 子どもたちのその時に最適な絵本を選ぶのも楽しみの一つ、「もいっかい。」は最高の賞賛です。 年齢が進むにつれ話の筋を追って聞く力も育ち、年長児になると長いお話も喜んで聞けるようになります。 冒険ものなど、次どうなるのだろうと食い入るように見たり、危機に面して知恵を働かせて切り抜けていく様子にほっとしたりしながら、何日もかけて長いお話を楽しみます。 友達関係が育ちクラスが一つにまとまって気持ちが通じ合う仲間と一緒に聞くからこそ、その物語がよりいっそう心に深く刻まれていくようです。 子どもたちは自分の経験とお話の世界を重ね合わせ、自分はこれからどのような心の持ち方をしようかとか、どういう生きかたをしようかといったことも感じ取っているように思います。

 子どもの方から「これ読んで。」と絵本を持ってくるときもあります。 絵本を楽しみたいというより、ちょっとした寂しさを感じた時、なんとなくゆったりしたい時に、それを埋めようとして絵本を持ってきていることもあります。 読んでもらった後、また元気に出かけていく姿に充電をしていた様子がうかがわれ、絵本が温かい居場所になっているようです。

 また、家庭への絵本の貸し出しも大切にしてきました。 自分の好きな絵本を大好きなお母さんやお父さんに読んでもらうのはとてもうれしい時間です。 折に触れ、家庭で絵本を読んであげてほしいことを伝え、週1回好きな絵本を選んで持ち帰ります。 ある時、「この絵本を読んで思わず涙が出ました。」と話してくれたお母さんがいました。 “赤ちゃんが生まれてお姉ちゃんになった子が、がんばっているけど本当はちょっと甘えたい”そうした内容で、ちょうど同じ境遇にあった上の子の気持ちに気付かされ涙したそうです。 絵本は子どもだけのものではないようです。

 はじめは、保育の一環として絵本を読んでいましたが、人生経験を経るほど深い意味を発見出来ることを知りました。 絵本は、大人も子どもも生きていくうえで大事なこと、本質的なことを気付かせてくれます。 今、子どもたちを取り巻く言語環境は、テレビ、パソコン、スマホ等デジタル機器による情報が支配しつつあり、子どもたちが生身の人間とのコミュニケーションをする機会が減ってきています。 子どもと大人が触れ合う絵本の世界は、言葉だけでなく、感性、人と関わる力、安定感、自分自身を見つめる心の発達などを育むものとして、より深い意味を持ってきているように思います。